僕の自己紹介

Twitterではただ単にグチャグチャと毒を吐いている(つもりの)僕ですが、どうしてこうなってしまったのか僕の20年ちょいの過去を振り返る記事になります。それでは長くなりますが、お付き合いください。

誕生

1998年7月18日生まれの現在24歳です。千葉県が生誕地です。千葉県出身の父と神奈川県出身の母の元に生まれました。3000gいかないくらいで体がかなり弱かったそうです。

幼児期

この頃の記憶はほとんどないので、母から聞いた話にはなるのですが、ブロックや絵を描くことが好きな子供だったそうです。確かに実家に帰ると意味の分からん絵が大量に出てきます。

後は子供らしく、乗り物や恐竜が好きだったはず。

唯一変わったエピソードとしては僕は長男だったので、3歳くらいまで砂糖の入ったものをほとんど食べたことがなく(母の努力ですね)人生で一度も虫歯になったことがありません。
この頃の甘いものは食パンだったらしい。ほら、少しだけ砂糖が入ってるじゃん?

幼稚園・保育園時代

僕が3歳の時に住んでいた場所が福島県の花輪町というところだったのですが、工場や車の排気ガスが原因か分かりませんが、2歳下の妹と共に気管支喘息にかかりました。

そのため、入院しては退院を繰り返してました。正直一生病院には行きたくないですね。

ですので、その頃通っていた幼稚園には満足に行くことが出来ませんでした。それもあって家の中で遊ぶ子供だったそうです。

4歳の頃に父が脱サラをして、長野県に移住しました。超がつく程のド田舎(村)でしたが、空気は綺麗で自然が溢れている場所で僕は大好きですね。出身地はそこになりました。(どこだよ)

小学校時代

小学校に入学したのですが、クラスは1クラスしかなく、しかも12人でした。都会の人からしたら信じられないと思います。 小学2年生になる前に末の妹が生まれました。
小学校3年生になる前に家を購入したので引っ越しをしました。両親は人生最後の引っ越しをして、標高550mのまあまあ森の中みたいなところに移り住みました。普通に道にリスや鹿、猪、狸、時には熊が出るようなところです。両親は大学生の頃に山登り部で知り合って結婚まで至ったので、南アルプスが見える家には大満足しているだろうなあ。
引っ越しをした影響で僕は村内で小学校を転校しました。この転校という行事はなかなか個人的には堪えましたね。やはり子供にいい影響を与えることは少ない気がする。僕はこの時同じクラスになったやつと今でも一番仲が良いので一概には言えないですが、当時は友達がいなくてしんどかったです。
小学3年生ともなるとある程度コミュニティが出来てるんですよね…。
クラスは36人でまあまあ多いくらいに感じてましたが、都会からしたら少ないんですよね…。2クラスしかないし。
ちなみに児童会長をやるくらいには人前に立ちたい性格をしてました。

中学校時代

中学校時代は身長が低かったことがずっとコンプレックスでしたね。入学当時身長が139.9cmだったことを覚えています。めちゃくちゃイジられたので、その時の経験から絶対に他人の容姿のことは言わないと決めてます。自分じゃどうしようもないことを言う人って何なんですかね。

あと、中学1年生の冬に喘息が寛解します。ちなみにタバコは吸いません。

当時僕は勉強ができる方(村内に1つしかない中学校の中では。井の中の蛙ですね。)だったのですが、先生になぜか高校進学できる学区で1番上の学校は無理と言われ、2番目の学校に進学したのですが、それが後に勉強無気力高校時代を引き起こします。(別に中学校時代も大して勉強してないけど。)

中学校時代までは部活も勉強もまあまあ真面目にやってた人間でしたね。

高校時代

そんなこんなで自称進学校に入学した僕ですが、ここでもまた身長でめちゃくちゃイジられます。高校入学当時の身長は156cmでしたね。テニス部に入ったのですが、部活でもクラスでも1番小さかったです。(高1まで身長のことで病院行くくらい気にしてた。病気もあるし。)
高校時代は勉強も身が入らず、恋愛…なんて全く興味なく、ひたすら部活の毎日でした。なぜかテニスにどはまりしてオフの日もコートをレンタルしてやるくらいには好きでしたね。といってもそこまで強豪でもなく3年の夏に引退しました。
勉強の方は、成績がめちゃくちゃ下がってしまい(ただやんなかっただけ)、うちの両親は国公立大以外には学費は出さないという親だったので大学進学は諦め、好きだった料理をやりたいと言い、新宿の調理師専門学校に進学を決めました。

ちなみに卒業時には身長が入学当初+15cm以上伸びていじってきたやつを見下ろしてましたね。だいたい160cm前半くらいの人間をいじるやつって不思議と全員170cmないやつなんですよ。ようは170cmないことのコンプレックスを自分より小さいやつにぶつけてるんです。あいつらを高3の最後に見下ろした時の快感と言ったらなかったですね。ざまーみろ。人の外見は馬鹿にするもんじゃない。

専門学校時代

ここで田舎のネズミが大都会に進出です。当時は都会の全てに圧倒されましたね。住んでいたのは中野の方南町駅が最寄りの寮でした。某シティホテルでバイトをしていて金がなさすぎたのと仕送りをもらってなかったので、ひたすらバイトしてましたね。ホテルってマジで夜遅いんですよね~。そんなこんなで常に睡眠不足で授業に出てました。
就活は面倒くさすぎてノリでリゾートホテルの洋食に決めまして、1社しか受けてません。
けっこう適当に授業に出ていたので卒業ギリギリでした…僕が親ならブチ切れてる。

就職

新卒で熱海のリゾートホテルで働くことになったのですが、お世辞にも労働環境が良いとは言えないのと上下関係がハッキリし過ぎていて「長く働くことはないな」と正直思ってました。
料理が好きだったのですが、この頃は正直あんまり好きじゃなくなってましたね。高校時代が一番好きだったかな~~。洋食はブッフェとフレンチのコース、パティシエもやりましたね。色々な経験をさせていただいたことと忍耐力を無駄に付けてくれたことには感謝しています。あとは今の彼女に出会ったことが僕が会社に入った最大の意味を持たせてくれたな。

実は俳優を目指していた…

社会人2年目の11月末に退職して、渋谷の俳優養成所みたいなところに入ります…。この頃俳優を目指すと言い、養成所に入ったのですが、レッスンもそんなに行かなかったし、バイトばかりしてましたね。ようは口だけ野郎でした。そんなこんなで高い金を払っていたのですが、俳優の仕事なんか入るわけもなく、スタンドインという役割を一度やっただけでしたね。ギャラは事務所と1:1で5000円でした。1年契約だったので延長もせずにそのまま終わりました。

フリーター時代

フリーターって言い方あんまり好きじゃないんですが、世間一般的はフリーターなのでこの言い方をさせていただきます。とりあえずバイトや派遣をたくさんしていましたね。なんというかこの頃は完全に自分を見失っていて何がしたいのか探していました。なんて書いてみたものの、そんな自覚もなかったです。ようはバイトとか派遣をしていれば生活はできるんですよね。だから、とりあえずバイトに向かう。一日過ごす。寝る。また行く。この繰り返しで、僕はここで何をしているんだろうと時々思う。思うが、また朝が来る。なんというか自分はこんなはずじゃなかったという気持ちを持っていたことだけは覚えています。

入院~転職

実はコロナが流行りだした翌2020年の1月に肺炎にかかり、1週間ほど入院しました。小さい頃に喘息で入院していた時以上にきつかったですね~。診断ではコロナではなかったのですが、僕は今でもコロナだったと思ってます。看護師さん完全防護服だったし。股間から血抜かれたな、腕から血が出ないとかで。マジで死ぬかと思ったなあ、あれは。

退院してから就活しました。なんというかもう一度ちゃんと社員として働こうと思ったんですよね。それまで繋ぎでバイトしながら6月に某ビールメーカーの営業として働き始めました。当初は正社員で探していたのですが、学問不問のヤバそうなところしかなかったので、結局は契約社員として働き始めました。給料は良かったですね。

WEB制作の学習を始める

はい。ようやく出てきましたね。WEB制作。今までWEBの「うぇ」の字も出さずにごめんなさい。こいつはいつ今の会社に至るんだと。思った方もいらっしゃるやもしれません。WEB制作というもの自体を知ったのは2020年の12月でしたね。高校の頃の友人が大学の授業でプログラミングをしていて、どうやらプログラミングができると今の時代強いぞということを間に受けて始めましたね。ちなみにその頃はWEB開発とWEB制作の区別も分からないレベルでC言語の本を買ってました。マジでただの情弱だったな。
2021年になり、Macbook買って、めちゃくちゃ商材やらなんやら買って勉強して徐々にフリーランスになる方向に思想が傾倒していきました。僕の昔のTwitterアイコンはいわゆるMacを目の前に顔出しっていういわゆるあっち系のアイコンでしたからね。黒歴史過ぎる。別に自由だから良いけど。

周りに引かれ始める

周りというか彼女ですね。僕がやっている学習のことでたびたび喧嘩するようになりました。当時の僕は(本当にこのブログを彼女が見ないことを祈るのですが)彼女という存在は勉強やフリーランスになる上での足枷にしかならないと考えていて、嫌いでもないのに別れたいなどとアホなことを口走るレベルまで最低なやつに成り下がってました。

色々ないざこざがあり、僕は転職という道を選びました。ちょっとブログに書けない内容なので割愛しますが色んなことがありました(別れてないです)。ただ、まだ僕は2.3年したら会社から独立してやろうと考えてましたね。

広告会社に転職

僕のTwitterのプロフィールにも書いてあるので、僕がWEB制作会社で働いていると思っている方が多いと思うのですが、実際には広告会社と書くのが適切です(まあ、嘘は言ってないと思うんだよね。WEB制作する会社だし)。会社の中に紙、WEBなどの部門というかデザイナーがおり案件を請け負う形になっています。僕はコーダーとして入社しました。

現在

現在は1年間と少し働き、すっかり洗脳が溶けて(笑)現場の厳しさ、制作することの楽しさ、奥深さが分かってきました。(たぶん0.001%くらい)
現在はコーディング(4)、デザイン(もどき)(2)、ディレクション(3)、動画編集(1)くらいの比率で業務を行っています。

ここには書いてないのですが、コーダーとして転職できたポイントなどを転職記としていつか記事にしますね。

全く無益な記事でこんなに長くなってしまい、申し訳ないですが、ここまで見てくださりありがとうございました。

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